ある手記の朗読から始まる。
この話は現存する2人の白人探検家による日誌(時代が異なる)をモチーフにしているが、そのまま記録のノンフィクションではない。
モノクロームで、目に見える起承転結はなく、淡々と静かに進むのだけど、、、
この映画好きだなぁ~~⁽⁽◝( ꒪͒∀꒪͒ )◜⁾⁾≡₍₍◞( ꒪͒∀꒪͒ )◟₎₎⁽⁽◝( ꒪͒∀꒪͒ )◜⁾⁾≡₍₍◞( ꒪͒∀꒪͒ )◟₎₎
いいめっけものした。
南米アマゾンの密林の奥地に静かに暮らす、先住民族のひとつの部族の唯一の生き残りである流浪のシャーマン「カラマカテ」の元に、他部族の現地人ガイドに連れられて特殊な病気に罹患して衰弱した白人の学者が小舟で運び込まれてくる。
ゴム需要の増加に伴う白人の侵略で土地は荒らされ、数あった少数民族も滅ぼされていったり奴隷として使われたりという歴史的経緯があり、白人に対しては敵意と憎悪を剥き出しで追い払おうとする。
しかし、滅亡したと思われていた ある先住民族 の居場所を知っていて、生活を共にしてきたと知り何か違うものを感じたようで手を貸すことになった。
その病気を治療するためには聖なる植物「ヤクルナ」が必要なため、その植物の生息地へたどり着く必要があった。
まずはジャングルに敬意を払え。
掟を守れ
自然と共に生きてきた 先住民族の知識に敬意を払うことを条件にジャングルを彷徨う旅が始まる。
同時進行の形で、数十年後も一人で年老いていた「カラマカテ」の元に、また白人の学者がやってくる。
あまりに長い時間をひとりで暮らしてきたカラマカテは、昔の記憶がぼんやりとしていろいろ忘れていくことに不安のようなものを感じてるようです。
またもや「ヤクルナ」を探しており、「帰ってきた」というカラマカテの言動もあって混乱しがちだが、この学者は若いころに会った人とは別人である。
チュジャチャキ。姿を残して中身は空虚な自分の分身のようなもの。写真を撮ると魂を抜かれるという迷信は日本にもありましたね。
撮られた自分の写真をみて、それが中身のないチュジャチャキなんじゃないかとものすごく食いつく。ドッペルゲンガーを見た人のようだ。
しかし孤独のまま過ごした老年になると、自分自身がチュジャチャキになってきてしまったように虚ろな存在になりつつあった。。。。
店も先進文化に関するものも何も無い、自然と共に生きる人に、札束を見せて謝礼は大金だぞと言う姿はなんとも滑稽でばかばかしい。
この場所この生き方では物々交換の対照にもなり得ない。ちりがみほどの価値もないだろう。生きていくために必要なもの、価値というのは状況で変わる。
岩に描いた原始的な絵、静かな緑に囲まれた河、シンプルな歌
どれもが美しい。
が、美しいだけではない。
ジャングルで生きる過酷さ、悲しさ、自然の恵と搾取。部族同士の生き方の違い。
そして根本的な価値観やモラルの違い。
変わるものと変わらぬもの。
自ら知識を得て変わっていこうとするもの
自らの信念で他人を変えようとするもの
あるがままに自然の一部としての生き方
文明は人に知識と効率と便利さと清潔な快適さをもたらしたが、自然に対する畏敬と感謝と同化することを忘れさせているかもしれない。
信仰は狂気と紙一重。
本人にとっての正義や信念も、他人に無理やり押し付けた時には相手にとって迷惑と恐怖でしかないかもしれない。
伝統とそこで育まれて伝えられてきた精神世界が外部の力で強引に歪められてしまうのはどうなんだろ。
このストーリーが2つの時間軸を追っていて、カラマカテという一人の先住民が同じ場所を訪れて、昔と今で大きく変化してしまってる状況を目の当たりにするのも見どころ。
年月の波に流されて大きく変わっていったものがよくわかる。
「え?ここってもしかして、以前訪れたとき。。。」というのがよくわかる。
先住民の教えをかたくなに守り続けて孤高のまま伝える相手もいなくなってしまったカラマカテと対照的です。
正直大きな盛り上がりもなく静かに淡々として非常に地味な部類にはいると思うんだけど、飽きない、目が離せない。
単なる自然環境保護とか文明を持ち込むなということを訴えてるんじゃない、もっと人間としてその地でいかに生きていくかという精神的な根源的なものに心を揺さぶられる。
まぁ最後の演出はちょっと、、もうちょっと違和感なく全体のイメージに沿った訴え方もあったんじゃないかなとは思いますが(^^;)