八月の狂詩曲

Human Drama

『なんだかおかしな夏でした、、、』から始まる黒澤明監督の晩年の作品で、長崎の原爆の記憶とおばあちゃんの思い出話から展開される平和へのメッセージ。

長崎の近郊に住む鉦おばあちゃんのもとへ、東京から四人の孫が遊びに来ていた。
そこへ届いたエアメール。
おばあちゃんの兄と名乗るハワイに住む日本人の錫二郎が、病気でまもない命。せめて妹に会いたいので来てほしいと。

ところがおばあちゃんはその兄に覚えがないという(兄弟が非常に多かったので)。
とりあえず先におばあちゃんの息子と娘が渡米して駆けつけてはいたが、錫二郎が本当に会いたいのは実の妹である鉦。
歓迎はしてくれたものの、やはり夏休みで家に来ている孫たち共々鉦に是非ハワイに会いに来て欲しいと。
孫たちは大はしゃぎだが、おばあちゃんは乗り気ではない。

旦那であるおじいちゃんは長崎原爆投下の時に爆心地近くに勤務していたため、骨も拾えなかったそうだ。アメリカと言うと悲しい記憶も蘇ってくるのだろう。

孫たちは長崎の街に出たついでに原爆の跡を辿る。
おじいちゃんの亡くなった学校にも歪んだ遊具が、街角にはあちこちには各国からの慰霊碑が寄贈されている。
そうした記録や戦争を忘れた街の様子などを見て、さらに鉦おばあちゃんがぽつりぽつりと語る話を聞いて子供たちの原爆に対する思いは高まっていく。

錫二郎は移民としてハワイに渡り、そこで農園を開拓して成功し、アメリカ人女性と結婚して家庭を築いていたようだ。
その兄の子、おばあちゃんからは甥っ子にあたるのがリチャードギアで、プール付きの豪邸に住んでいたので、戦後の人間であるおばあちゃんの娘息子は手放しではしゃいでばかり。

この原爆の日の記憶を生々しく持つおばあちゃんと、まるっきり屈託のないその子供たち、そしてさらにその下の代ながら次第に原爆のもたらした恐怖や不安を感じ取る孫たちとの心の対比が鮮やかだ。

物語と共に、美しい日本の自然と原風景が映し出される。
おばあちゃんちは田舎の古い茅葺の日本家屋が暖かく、簾越しの庭の緑も清々しい。
近所の真っ直ぐ林立する杉の森が神秘的で、焼け落ちた樹木と真っ赤な花のコントラストが目を惹く。
青い豊富に水の流れ落ちる滝と水面を泳ぐ蛇。
優しい山並みと暗闇に浮かぶ月。
それに調子っぱずれの戦前からある古いオルガンの音がBGMのようにちょいちょい挟み込まれる。

戦争を知らない大人たち〔つまり婆ちゃんの子供〕の、大金持ちの親戚が出来たとの浅ましい打算的な会話と、それを聞くおばあちゃんの思い、そして原爆についていろいろ感じた子供たちの思いが交差していく。

り、リチャードギアに片言の日本語を喋らせてる!?∑(゚Д゚)
何故来たのかは電報を見てすぐに飛んできたことから想像できそうなものだが、アメリカ人だからと妙な偏見が入りすぎる~〜。
だって、お父さんが日本人なわけだから、感情をまったく理解できないということはないはず。むしろ板挟みで悩んだ時期もあったんじゃないかな。
もちろん彼が「アメリカ代表」として原爆投下についてしゃべっているわけではない。
あくまでも日本人の父を持ちながら身近に原爆の被害を直に受けたおばさんと旦那がいたことを、今まで思い至らなかったということに衝撃を受けたのだろう。

和解と許しまではなんとなく順当で心温まる感じであったが。。。。。
ラストが急変!!一変して狂気の世界へと走り出すのです。

劇中にも出てくる子供たちの「野ばら」の合唱。
般若心経の響く中、じっと見つめる先のアリの行列と薔薇の花びら。
土砂降りの中を全力疾走する子供らと壊れた笠をなおも捧げ持つ老婆の姿にまた「野ばら」の合唱が被さっていく。
この「赤い薔薇」に黒澤監督はどのような思いを込めたのでしょう。
正直いろいろな意味にとれるのですよね、、、おじいちゃんへの追憶や深い愛情、凛と生きてきたおばあちゃん自身、取り返しのつかないことへの悔悟、命の力強さ、、、等々。。。。

長崎の記憶を伝えるために、純粋な物語というよりやや説明っぽくなりがちなところはある。
また原爆をCGや過去の実写などは使わずに、「イメージ」として表現している。
この物語は大人よりも、未来を担う子供たちに戦争のもたらす悲劇を感じてもらいたいものなのだろうな、そして色あせることなく語り伝えて欲しいのだろうなと思った。

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