タルコフスキーの遺作となった作品。2時間30分近くあるので長いです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『東方の三賢人の礼拝』のクローズアップからはじまる。
北海道の田舎の漁村のような寒々しい海辺で、年老いた父親とまだ幼い子供が枯れかけた木を植えている。
枯れかけた樹に来る日も来る日も決まった時間に儀式のように水をやり続ける修道士の話。
不毛の事のようだが最後には花が咲き乱れたそうな。
この画面の使い方贅沢だなぁ。
タルコフスキーの作品は、ひとつの場面がまるで1枚の絵のように美しくて好きだ。
そう、なんというか全体的に映画的ではなく、構図や各々の立ち位置などが計算し尽くされた絵画に似ているのだ。
口をきけない子供に対して延々と独白を続ける父親。
この作品はタルコフスキーの中でもとりわけセリフが多い気がする。
誕生日のお祝いをする人々もそれぞれカチッと決められたような位置で不思議な話を続ける。
子供の姿がまったく見えないのがちょっと気にかかる。
モノクロの荒廃した街のイメージ
永劫回帰。
我々は真実を見ていない。
事件の収集家と不思議な写真の話。突然の昏倒。
襲い掛かる揺れと轟音
ここから急に色彩の褪せた世界に変わる。
褪せた中にも色彩が残る場面と、完全なモノクロの情景が混ざり込む。
雨の濡れた地面の上に置いてあるミニチュアの我が家。
誰の仕業か?と聞く主人に、子供が誕生日プレゼントに作ったと告げるマリア。
モノクロの水たまりもタルコフスキーではおなじみだ。
夢?夢想の世界?色彩を落とした映像が時々挟み込まれる。
どうも現実の時間軸、空間とは違う次元を表しているようだ。
ラジオが喋り続ける。
チラつくテレビ画面が人々の顔に反射し、電話の音がなり続ける。
突然核戦争が勃発したようだ。
子供が眠っている
この子を起こせという人間と起こすな、起こさせないという論争が展開される。
起こすな=無理に現実世界を見せて怖がらせることは無いという風にとれる。
無神論者であった親父がここで神に心から祈りを捧げ始める。
家族も、家も、子供さえも、生命に結びつくすべてのものを捨て去り捧げるので、この動物的な恐怖をとりさって欲しいと。
え?自分が犠牲になって家族を救うのではなく、家族や何より愛していた子供を犠牲にしちゃうの?(°д°)
タルコフスキーの作品は、まともにストーリーを追うことを考えると思考停止してしまうので、取り敢えず心を開いて情景を全部そのまま受け入れようとするしかない。
果てしない悪夢の中をさまよい続けるような。
深い、深い、意識の底。
普段は思い出すことも感じることもないような無意識の彼方に漂う夢の断片
様々なイメージの洪水が訪れた後、ソファに寝転んだ姿でカラーの世界が戻る。
あ、全部夢だったのか?
何故か日本が大好きという設定で、音楽も日本の尺八と錫杖みたいな音が響き、最後の方はおもむろに背中に月のマークがついた黒い着物みたいなものをはおる。
子どもの姿もない。
全ては悪い長い夢であったのか
全ては現実で、彼の祈りが届いた結果なのか
彼は正気なのか、狂人か
そして最初に戻ったかのようなシーン
ただし枯れかけた樹に水をやっているのはこんどは幼子1人。
去っていくマリアの後ろ姿にバッハ『マタイ受難曲』よりアリア「憐れみ給え、わが神よ」の歌声が重なる。
この「初めに言葉ありき」は実は冒頭でも父親がつぶやいた言葉。
まさに永劫回帰の話をしていたのと重なるようだ。
雨、水たまり、炎とタルコフスキーワールドは揃ったが、そういや今回「霧」がなかった?
あいかわらずいろいろと憶測させられるけれども、比較的素直な流れで空想的な中でも現実的というか、構成やカメラワークも完成度の高い作品であると思う。結構好きかも。
「東方の三賢人の礼拝」の絵についてはキリストの誕生にまつわる逸話で、三賢人(占星学者)が星に導かれて誕生したばかりのキリストのもとにかけつけ贈り物を捧げるというものだが、その内容はこの先の受難、死と復活も暗喩しているという。映画の内容ともオーバーラップする感じだね。
ただし、ダ・ヴィンチの東方の三賢人の礼拝は未完のモノクロ状態であり、ボッティチェリをはじめとしてもっと有名な絵画がたくさんあるのにわざわざ未完成のものを選んだところにも何か意図を感じる。
マタイ受難曲もやはりキリストの受難から十字架での死と埋葬(それに続く復活の予感)を題材にしたものだが、どす暗くなくて哀愁を帯びた美しさが表現されてるんだよなあ。
そう書いてくとなんかがちがちの宗教映画みたいだけど、協議のおしつけとかそんなんじゃなく、人間として生きることへの思索と祈りのようなものが籠められていると感じた。