パッション

Religious

いろいろな面で衝撃の話題作となった、イエス・キリストが磔刑にされるまでの12時間をメル・ギブソン監督が12年も構想に時間をかけて赤裸々に描き出した作品。
題名のパッションは情熱ではなく、この場合キリスト教用語で「受難」を意味する。

蒼い深い森の中で1人嘆き苦しむキリストの姿から始まる。誰かが自分を裏切ると。

そこにいるのは堂々と自信と慈愛に満ちた姿ではなく、怯えて髪に助けを求める人間らしい姿。
静かに忍び寄る蛇は裏切りの象徴か。

無抵抗に大人しく縄についたイエスを、役人たちは面白半分に暴力を振るい、痛ぶりながら引き立てていく。
悪意を持つユダヤ教のパリサイ派だけが夜中に集まり、一方的に罵り告発する裁判という名のリンチ、吊し上げ。

涙を飲んでその様子を見守りながらも、群衆に突き出されそうになると、自分はそんな人は知らない、会ったこともない無関係だといいはるペトロ。
実は以前イエスに熱烈な信仰を捧げたところ言われた予言通りの行いであった。
それをじっと見つめるイエスの目とペトロに浮かぶ恐れと悔やみ。

そしてイエスの居場所を教えたものの後悔に囚われて、単身乗り込んで銀貨を返そうとすると追い払われたユダ。
罪の意識に追い回され、耐えきれず自ら命を断つ。

ここで描かれるのは人々を教化して回る凛とした姿や、ひれ伏してしまうような素晴らしい宗教的な奇跡の物語ではなく、痛みや限界や弱さや哀れみをもつ一人の人間が、権力の暴力に巻き込まれてずたずたにされていく姿と抗いきれぬ運命に翻弄される姿。

この時代形式上はうえにたつはずのローマ総督と国王が無罪と言っても、大祭祀の方が実際の権力を持っているらしいことが伺える。

そこで恩赦で大罪人の精神的にやばそうな殺人者とイエスとどちらを解放するか選べと問うと、大祭祀に煽られたユダヤ人たちは人殺しを釈放してイエスを処刑しろと叫ぶ。
客観的に見たら狂気の沙汰としか思えないのだが、それだけイエスの存在に危機感を抱いて盲目になっていたとしか思えない。

とにかくひたすらイエスが血を流し、肉を抉られ、ズタズタにされていくさまはあまりにも酷く凄惨。
面白い遊びのように笑いさんざめきながら拷問を繰り返す気の狂ったような獄吏の姿と、苦悶に打ちひしがれて泣き崩れるマリアの姿が重なる。

「棘の冠」なども、教会の像や絵画などではおなじみであるが、それを生身の人間が実際に被らされるとどういうことになるのか!今までリアルに想像したことなかった。
なんとなくオリンピックの月桂樹の冠感覚でいたらとんでもないです。正に地獄の沙汰ですよ。。。
手足を十字架に打ち付けられる様子も、非常に生々しく肉に食い込み突き破っていく雰囲気がぞっとするほど伝わってくる。気を失わずに正気を保つことなど人間に可能なのだろうか。

たびたび現れて無表情に見つめるサタンと、受難前の教えを説くキリストの姿がフラッシュバックのように挟み込まれる。

この上なく美しく、静かで、優しい映像と、この上なく残虐無慈悲で醜く凄惨な心の闇が見事に共存する。

そんじょそこらのホラーやスプラッタには敵わない残忍な陰湿さと理不尽さもあるので、観るにはそれなりの覚悟を、、、
あの笑いながら暴力を振るいまくった奴らはみんなジェイソンに襲われて恐怖のうちに息絶えるがよい!と呪いの言葉を浴びせたくなる私は決して彼にはなれない。

かなり重く、荘厳でもあり、キリスト教をよく知らない人でも心を抉られるものがあるだろう。
もちろんキリスト教においては非常に重要な場面のひとつではあるけれど、この映画はみかけほど「宗教的」ともいえない。
むしろサタンよりも恐ろしい人間のエゴと狂気と殺人鬼より恐ろしい無知な残虐性とでもいったものが強く感じられます。

十字架の上での有名な言葉は耳をよくすませて聞いてみてください。
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(わが神よ、わが神よ、どうして私を見捨てられたのですか。)
「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」

とにかくトラウマになりそうなショックが強い映画です。

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