女龍王神功皇后〈下〉

歴史(日本)

女龍王神功皇后〈下〉 (新潮文庫)

下巻は、後の仲哀天皇との結婚準備のために、下関付近の穴門の豊浦宮に向かう途中の葛藤から始まる。
ちなみにこの「豊浦宮」は、のちの推古天皇の皇居であった、奈良、飛鳥の豊浦宮とは別物であるようだ。
上巻が神聖な神に仕える厳格な巫女といった雰囲気に対して、下巻ではだんだん女性らしさがにじみ出てくる。
と、同時にシャーマン的なあやかしの描写もかなり強く出ている。

天皇家の系譜をみると、一応「神武天皇」から始まっているのだが、このあたりはもう完全に神話の世界で。。
河内の長髄彦との戦いや、宇陀の兄猾と弟猾との戦いなどは、諸地方の豪族を力で従わせていった様子が伺えるが、二代綏靖天皇から九代開化天皇までは伝承もほとんどないようだ。

十代崇神天皇。
ところで、この「崇」という字を冠する天皇というのは、蘇我馬子に排除された「崇峻天皇」、藤原種継暗殺の嫌疑をかけられ憤死した「崇道天皇(早良親王)」、保元の乱で屈辱を舐めた「崇徳天皇」など無念の思いで死を遂げた人物に共通する。
南北朝時代の北朝にも「崇光天皇」という名が見えますね。まあ内紛で足利尊氏に裏切られた形で廃され、南朝方に幽閉されたのですから、やはり恨みがあってもおかしくはない(^^;)。
そもそも「祟る(たたる)」という字そのものでもあるわけで、崇神天皇もその時代になにかあったのではないかと勘ぐってしまう。
話は内容からちょっとずれましたが。。。

そして13代目の成務天皇に嗣子が無かったことから、12代景行天皇の血筋にチャンスがまわってくる。
ヤマトタケルノミコトが父で、神功皇后が后とされる仲哀天皇。実在を疑問視されているタッグにはさまれたこの御方も実在の疑いはもたれているようだ。
実在に信憑性が出てくるのは、次の応神・仁徳天皇あたりかららしい。とはいえそれでも確定ではないようですけどね。

当時はまだ天皇の継承権が明確ではないから(そもそも天皇という呼び名は後世のものだが)、血族の間では親子兄弟の間でも骨肉を食む陰謀や武力による争いが多々あり、どれだけ周囲の豪族を味方につけられるかが重要になってくる。
また、なったところでどれだけの権力があったというのだろう?
御輿に乗ってはいるが絶対君主というわけではないし、日本全土を把握しているわけでもない。

この作品では、邪馬台国が北九州にあったということが前提となっています。
付属の地図を見ながら読み進めていくと、当時の九州の勢力図が見えてくるのだが、大きく分けて北と南で対立しており、その中でもまた細かい豪族の勢力争いがある。
北九州は元々卑弥呼に従っていた側、南九州は対立して戦争となり、結局この争いによって後継者である台与が大和で立て直しをはかったのが大和王朝のもとであるとか、、、

ん?ここでちょっと疑問が。
一応13代まで天皇家が大和で君臨していたことになってるわけで、そこに九州から台与が移って勢力を確立するということはどうなるわけだ??
普通に考えたらそこでまた対立が起こってぐちゃぐちゃになると思われるのだけど、その辺がどういう力関係になってるのか濁されてる気がする。
まあ中国の「三国志」の中の一部である「魏志倭人伝」と、日本神話の「記紀」を一緒にすることに無理があるのかもしれないが。。

ともかく大和王権にとってかわることが、倭国の王者となることを意味し、仲哀天皇サイドはその身辺を固める基盤に選んだのが九州地域の豪族たちであったということになっている。
「天皇」と言ってはいるが、この話の筋からすると、仲哀天皇は「自称」天皇であり、北部九州の豪族に認めさせただけで、大和にのぼる前に没しているので代々の天皇家に入れるのにはちょっと違和感がある。
実際に大和へのぼって勝ち取ったのは、二人の子である応神天皇を擁した神功皇后ということになるのだが。(日本書紀では九州へは熊襲討伐へ赴いてそこで死んだことになってるようだ)

元々、学説に則した史実そのものを描いたものではなく、伝承のロマンを広げてみた作品と言ってるのだから、細かいことをつついてもしょうがないのだけれど(苦笑)

「神功皇后」といえば「新羅討伐」の伝承がつきものだ。
どうしてそのような伝承となったのか、当時の信仰や地域豪族の関係の変化などと照らしあわせて、より説得力のある結論となっており、すべての話はそのための伏線だったのだなという風にも感じられました。

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