残念ながら、先へ先へと逸る気持ちを押さえて反芻していた地獄篇ほど、一章一章に興味をそそられなかった。
そのため、読み進めるスピードも一気にダウンして当初の予定より読破に時間がかかってしまった。
煉獄は天国と地獄の間である。
と、いうことで、仏教で言えば修羅道、餓鬼道あたりに雰囲気が似るイメージがあったが、むしろ限りなく天国に近い。
地獄は下層へ進むほど罪も重かったが、煉獄ではすすむほど(上層へ向かう)天国に近い存在となる。
従って、入り口近くで寄ってくる魂はみんな早く浮かばれるよう、ただ現世の人々による自分に対する祈りを乞うばかりであるが(追善供養のようなものか)一線を越えれば敬虔で、礼儀正しく、自愛や反省に満ちあふれて、ひたすら懺悔を捧げる魂ばかりになってくる。
その姿は美しく崇高でさえあるが、場面ごとに趣向を凝らした地獄編と比べるとやはり単調に感じてしまう。
また、これは私の不勉強のせいもあるが、登場人物も歴史上の著名人は少なく聞き覚えのない地名が多くなって、付随した解説を読まないとさっぱりわからずイマイチ心に直接響いては来なかった。
終盤は打って変わって、荘厳というより豪華絢爛まばゆいばかりの舞台が幕を上げる。
これでもか!と言わんばかりのオンパレードは、逆に現実味を失わせて物語の世界から離れた目線になってしまう。
ベアトリーチェはもはやキリスト教世界の聖女伝説をも凌駕した、ほぼ神そのもののような存在にまで昇華され、その挙動も唇からこぼれ出る言葉も高みからの代弁のようである。
ここまで熱烈に崇拝される愛情というものも凄まじいが、きっと思いを果たせずに早く失ってしまったから極限まで美化されてしまった麺もあるんだろうなあ。
きっと結婚して実生活を共にしてたらこうはならなかったような気もする(笑)
にもかかわらず、ダンテを難詰する時は導きの言葉と言うよりも生々しい女の嫉妬のようなものを感じてしまうのがアンバランスでちょっとおもしろい。
また比喩もいよいよ複雑でわかりにくく漠然としすぎていて、注釈がないと詩篇だけでは何を言いたいのか読み取ることができない。
このあたりも具体的でわかりやすかった地獄編のほうが、やはり心情的に響きやすかったと思う。
この調子が続くと思うと、ちょっとまた膨大な天国編を読み始めるのに躊躇ができてしまった。
また、ここで表されるものがが全てではないけれど、読み進めるうちにだんだんキリスト教というものの形が見えてくる気はする。