道鏡と言えば、後世「仏に仕える身でありながら、政治的野心を持って天皇を影で操った極悪人」「看護と称して手篭めにしたエロ法師」というようなレッテルが貼られている。
だが、その風評を流したのは誰か?ということになれば、やはり排除した側の藤原氏ではなかろうかと疑われる。
無駄なものを削ぎ落してみれば、結局は権力争いにおける勝者と敗者というところではなかろうか。
道鏡が非常に勤勉で、意欲的に様々な知識を摂取しようとしていたことを語る文献はあるようだが、極悪非道で権力を笠にきた無法な行いをしていたというような事実を示すような資料は無いようである。
自分の煩悩の強さに悩み苦しみながら求法の道を進む、案外真面目な人物だったのかもしれません。
むしろ藤原氏のほうが、力でねじ伏せるように徹底的に政敵を排除し、天皇家には自分の娘達を次々にあてがって血筋を確保し、要職を身内でがちがちに固めていたように思う。
そのため、藤原氏が栄華を誇っていたさなかに、狙ったように藤原氏四家と呼ばれた柱石の人物が疫病で全員死亡したことは、祟りによるものと恐れられたりしたわけだ。
とはいえ、この小説でもまあ道鏡が精力溢れる、性に対しても並ならぬ熱意を持っていた人物という見方はしているのであるけれど(笑)
まあ坊主である前に一人の男であったということだろう。
道鏡は、物部の流れをくむ弓削連出身であるということ以外、出家するまでの詳しい生い立ちに関する資料はないようだ。
なので義淵の弟子となる以前の話は黒岩さんが自由に想像を羽ばたかせたものだと思われるが、後の行動につながるようにうまくまとめられている。
どういう経緯で出家したのか。根底にあったのはどういう思想か。仏教と呪術の関係や、行基や良弁とのつながりや義淵の弟子になるためのつてなど、違和感のない流れはさすがだ。
上巻では、当時の時代背景が黒岩さんらしく細かに記されている。
庶民の暮らしや租庸調などの税制、おおらかな男女の交わり、官位による差別等々。
疫病による藤原一族の凋落から新政権の樹立、遣唐使から戻った吉備真備と僧・玄昉の台頭、筑紫における藤原広嗣の乱、聖武天皇の放浪、行基の台頭と入れ替わる吉備真備と玄昉の左遷、光明皇太后と孝謙女帝をつかんだ藤原仲麻呂の台頭。。。と政界も宗教界も大きく変動する中で、道鏡はひたすら時を伺い、流れに翻弄されつつも修行する。
なんとか看病禅師として平城宮内に入ったのは、すでに老年に差し掛かる頃だったとは、かなり遅い出世だったのだなと知る。
上巻ではそこまでの忍耐と、人間関係やそれに伴う個々の思いなどが交錯して、人間である道鏡をよくまとめて後半につなげている。