またダンテの神曲からの脱線です。関連するものや、似たようなものは続けて読み比べたほうが私の場合は入りやすいので。
子供の頃、「ウソついたら針千本の~~ます」とか、「ウソつくと閻魔様に舌を引っこ抜かれるよ」、「隠れて悪いことしても神様がみてるんだから」というのは身近な言葉でした。
別にうちが仏教徒だったわけではありません。にも関わらず当然のようにそういうこともあると思えたのは、もはや宗教と関係なく日本人の思想として根付いていたからなんでしょうね。
「阿鼻叫喚の有様」なんて表現もありますが、これぞまさに地獄そのものなわけで。
鎌倉の建長寺の近くに「円応寺(十王堂)」という小さなお堂があって、そこに人の死後、冥界に赴いて初七日から三回忌までの間に取り調べられる10人の冥王が、壁沿いに入ってきた人間を囲むように並んでいる。
薄暗い中でかっと目玉と口を開いた閻魔様が印象的で(心境により、恐ろしくも大笑いしてるようにも見える)結構好きで、ちょくちょく覗きにいってました。
なのでなんとなくイメージはあるものの、じゃあ構造はどうなっているのか?となると具体的にはピンと来ない。
地獄絵巻などもあることから、いろいろな刑があるひとつの場所のように思ってる人も案外いるのではないかと思う。
ところが神曲に負けずに罪の内容によって、かなり細分化されているんですねえ。そしてやはり因果応報で、犯した罪をイメージした刑になっている。
ただ、どれも似たり寄ったりで、正直途中で飽きてしまった。最後の方は読み流すような感じに。
基本のキーワードは「火(煮る、焼く、ゆでる)」「溶かした金属を流し込む」「切り刻む」「突き刺す」「押しつぶす」「打ち砕く」「動物や虫に食われる」
この辺はもう繰り返し繰り返し出てくる場面。(特に火はだいたいの場所で共通)
やはり人間の感じる苦痛というものに対する想像力には限りがあるというところでしょうか。
これはサドの小説でもあったが、極悪非道な事柄を最初から並べすぎたため、それ以上の変化に富んだものが見つからずに言葉尻や形容詞をちょっと変えただけの表現となってしまい、結果読んでるほうとしては延々同じようなことの繰り返しで見飽きて麻痺してしまうといったとこだろう。
それにしても地獄の獄卒たちは、とんでもなくサディスティックに見えてしまう。
心根を入れ替えるよう教え諭すための、いわば愛の鞭なのであるが、人の痛みがわかる者ならばとてもできるものではない。へたげに愛情からというところがまた余計サディスティックに感じてしまうわけで。。。
そんなことを考える私は地獄におちる存在なのかもしれない(汗
ただ、仏教の地獄の思想が違うなと思ったのは、「地獄で繰り返し死ぬ」ということ。
肉体はすでに死んでるわけであるし、だいたいそんな刑罰を与えたら最初の段階でとっくに死んでるよ!というようなものばかりなのであるが、ばらばらに切り刻まれても、骨だけになってもまだ感覚があって苦しんでるようで、どういう状態が死ぬということなのかはわかりにくい。
しかし、最終的には死んでまた生き返らされる。そしてまたいたぶられるわけだが、考えてみたら冥界の中で死と再生が繰り返されているんだね。なんか特殊だ。
ちなみに私の卒論がまさに六道輪廻にかかわるものだったので、往生要集や他の経典、インド神話やリグ=ヴェーダ、ゾロアスター教関連も学生時代にいくつか調べて読んでいました。
細かい内容は忘れてしまったのだけど、特に往生要集は強烈なインパクトを残し、もう一度じっくり読み直したいなあと思ってました。もしかして正法念処経も読んでたかも。。
途中で飽きたのが微妙だけど、第一章の概論やあとがきなどはなかなかおもしろかった。