古事記物語―若い人への古典案内

日本神話歴史(日本)

古事記物語―若い人への古典案内 (現代教養文庫)

この著書の特徴は、他の2者の古事記ではとりあげられていないような話まで細かく載せてあることだろう。一番原文に近いかたちではないかと思う。

まず編者である太安万侶の上奏文が全文載せられている。
神武から崇神の間の欠史八代と言われる綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化についても短いながらちゃんと記述されている。

履中天皇、反正天皇、允恭天皇については梅原版では省略されている。基本的に太田版は天皇ごとに章がわけられているので、それぞれの事跡が探しやすいという利点もある。

それでは梅原版、田辺版に続いて古事記の後半へ。
神功皇后と仲哀天皇の子、応神天皇も例外ではないのだが、どうも親が末の子を贔屓してそこから兄弟の諍いに発展するケースが古事記の中ではよく見られる。

こうした肉親間での争いを回避するために、長男を跡継ぎにする意識ができたのだろうが、それはいつ頃どういう思想の影響であったのか?。権力者が多妻制であった頃は、正室、側室、縁者、家臣などによっても格の違いもあったことだし。。。

その子である仁徳天皇と言えば、昔は教科書に日本最大の前方後円墳として「仁徳天皇陵」の写真がどどーんと載せられていたので、覚えにある人も多いと思う。
まあ古墳自体についてはいろいろとまた疑問点は出てきているのであるが。。。

聖人君主の鏡のような人物であったと記されているが、どうもこうした場合には悪妻や極度に嫉妬深い妻が寄り添っているというのも興味深い。

天皇以外でも気になるのが「建内宿禰」。景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代に仕えていることになるようだが、同一人物なのであろうか?

そりゃあ伊達政宗なども様々な天下人に仕えたけれど、古事記でみると軽く200数十年くらい開いてるようなのだ。

名前は土地や役職などと結びついてると考えると別の人物である可能性が高いが、だとするとどこまでが同じ人物であるのか。

以降の安康天皇、雄略天皇即位までの間には、禁断の愛故に身を滅ぼした軽王と軽大郎女の悲哀物語や、讒言による悲劇、仇討ち物語、ヤマトタケルの再来のような大長谷王子など、ストーリー的にはおもしろいものがぎゅっと詰まっている。

が、蓋を開けてみれば、邪魔な政敵を倒すための口実をひたすら羅列してるような感じも拭えない。だいたい皇位を狙える位置にある肉親を排除してるのがあまりにも見えすぎる。死人に口なし。

また、各豪族の系譜も数多く語られているが、やはりこれも権威のために神々の子孫であるように紐付けしたんだろうなぁ。

後世にも武士などが「我々は源氏の末裔である」などと名乗って家系図を「作り上げた」例などもみられるから、いつの時代も人間考えることはあまり変わらないものだなと。

しかし、ここまで神々の子孫にしちゃうと、遡ればみんな天皇家と親戚筋ということになりはしまいか。。

古事記には多くの「うた」も含まれている。
万葉集や俳句などと比べたら洗練されておらず、語感もおさまりも悪いのであるが、何もとらわれないおおらかさはあるような気はする。

これらはどの段階で何者によって作られたのだろうか?
わらべうたのように、いつの間にか口づてに広まったものなのか、それとも古事記を編集する際に誰かが作って挿入したのだろうか。

読むほどに疑問がどんどん湧いてくる不思議な書物である。もっと読み込んでいく視点というのもあるが、さすがにちょっと疲れたのでしばらく離れていつかまた読みなおしてみようとは思う。

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