長野:諏訪散策

05 甲信越国内長野県

諏訪の温泉に行ったので、諏訪大社もめぐってみた。諏訪大社と一口にいっても各社あり、全部まわるのは結構大変。車で移動した方が無難です。
全国各地にある諏訪神社の本社で、かなり古い神社なんだよねえ。
まずは本宮

全国に一万余の分社と末社をもつ信州を代表する神社である。
ご祭神は大国主命の子、建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、一般には古くから、上社が男神様、下社が女神様を祭ると言われてきた。
神社建築として特異なのが、この諏訪大社はご本殿を持たないお社なのだ。だからどこへ向かって手をあわせたらいいのか悩んでしまった。

天下の大祭として有名な「御柱祭」の柱が堂々と聳え立つ境内。

裏手の方には御柱祭で使用するさまざまな道具がおさめられていて、お祭りのない時でも雰囲気を味わうことができる。

さすがに本宮だけのことはあり、境内は広々としている。現在の拝殿と幣殿は天保のころのもので、国の重要文化財に指定されている。
他にも布橋という長い回廊、茅茸の東西宝殿、四脚門、片拝殿などが見どころ。

次に寄ったのが春宮。時期のせいで春っぽくはないのだがw。

下社最初の鎮座地と考えられる、落ち着いた佇まいのお社である。農耕開拓神の様式を伝える1月15日の筒粥の神事が伝わる。

拝殿は秋宮の立川流と競って大隅流の村田長左衛門矩重という人が作ったそうで、こじんまりとした中にも気品が感じられる。この拝殿も国の重要文化財となっていて、一見の価値はあります。
さらにまわって秋宮。
諏訪神社のイメージといえば、私の中ではずばりこのぶっといしめ縄。

旧中山道と甲州街道の分岐点に面する下諏訪宿のすぐ脇にあり、交通の便もよいため観光バスなどもやってきては多くの参詣客で賑わっている。周囲には食事所もたくさんある。

まず階段を上がると樹齢約800年の「根入りの杉」が堂々と枝を広げているのが目に飛び込んでくる。これだけでも圧倒。

拝殿は江戸中期、諏訪の名匠、立川富棟の代表作で彫刻がみどころ。
また、神楽殿は二代立川和四郎富昌の作でどっしりとした威厳をただよわせている。拝殿・神楽殿はともに国の重要文化財に指定されている。
ここでも四隅には高さ17m、太さ1mの御柱(おんばしら)がそびえる。

うーん、前宮までは足を伸ばす時間が足りなかった。ちょっと離れてるんだよねえ。
そこで近い所にあった「万治の石仏」を見に行ってみました。

諏訪大社下社春宮の脇から裏手へと続く旧参道わきにある摩訶不思議な石仏。
まんじゅうの上に小豆でも乗っかったような姿である。昔は麦畑のまん中にポツンとあったそうで、現在では周囲だけがきれいに整備されているがまわりは普通の畑である。

高さ2.7m、奥行き4mの、彫刻が施された自然石の上に仏頭が乗っており、左側面に万治三年の文字があることから万治の石仏と呼ばれてる。この石仏には不思議な伝承が残っている。

明暦3年(1657)諏訪氏三代藩主忠晴が、春宮に石の大鳥居を寄進しようとした時のこと、それを請けた大工がここにあった大きな岩を刻んで鳥居にと、ノミを入れた途端その岩から血が流れ出した。
恐れをなした石工が仕事をやめたところ、その石工の夢枕に諏訪明神が立たれ、神のお告げで良材を見つけることができ鳥居は完成した。
そのようなことから初めに鳥居にしようとした岩に阿弥陀如来を彫り祭ったというのがこの石仏で、背というか右肩の方にそのノミの跡といわれる傷が現在もかすかに残っている。

実は、幼い頃に父のアルバムで、父が石仏と同じ姿勢で写真を撮っていたのを発見してからずっと印象に残っていて気になっていたポイントです。今回やはり同じことをしてきましたw。
ついでに高島城へ。

別名諏訪の浮城と呼ばれる。高島城は豊臣秀吉の武将、日根野織部正高吉により400年程前(天正18年)築城され、以降諏訪氏の居城としてその威容と要害堅固を誇ってきた。

もとは城のすぐ下まで諏訪湖が広がっていたため、門をでるとすぐに船着き場となっていたようで今もなごりはとどめている。
そのため攻めてくるにも舟がなければ手出しもできず、漕ぎ寄せれば城壁からねらい撃ちにされるし、大人数できても門をとじてしまえば閉め出されてしまう設計のため、さすがにこの守りの強固さには手出しがなかなかできなかったようである。
まさに自然を生かした水上要塞である。

明治8年に高島城は明治政府により取り壊されたが、郷土を愛する人々によって昭和45年5月に復興された。現在は1階は郷土資料室、2階は高島城資料室、3階は高島城資料室と 展望室になっている。
紅葉狩りも兼ねた諏訪散策でした♪

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